やりたいことがわからない時は正しさという誰かの意見を求めてる
やりたいたいこと
それは湧き出す衝動で
意味もなくやりたくなるもの
そこに誰の承認もいらないのだけど
やりたいことを提示する時
そのことの意味や行動を
他人の目からの正しさに焦点を合わせている
たくさんの他人の正しさを意識してたら
わからなくなるのも当然
他人の正しさに焦点を合わせている時は
恐れを感じていることが多い
人はしてはいけないという禁止事項を持っていると
それをやっている人を見たら裁きたくなるのです。
正しさという旗を翻し制裁してもいいってくらいに
「正しさ」は悪魔だ。
それを恐れて自分の衝動を無意識に見ないようにしているのです。
正しさからは何も生まれない
歴史はこれの繰り返しかもしれない。
どこかで
自分の中だけでも
この連鎖を断ち切らなければいけないと思った。
そのことを、ものすごくわかりやすく描いている本がある。
パウロコエーリョの「悪魔とプリン嬢」
悪魔とプリン嬢 (角川文庫)
562円
|
自分自身で決める覚悟
これがどうしても必要になってくる。
自分自身で選択していく覚悟
でもね、ぬるま湯に浸かっている日常で
この意識に変えることはたやすいことではない。
そこで、私は一人旅をオススメします。
旅は自分自身の選択の連続だから。
そして国によって「正しさ」の定義がまるで違う。
だから気がついてしまうのよ。
その「正しさ」がまやかしであることを
体感での学びは全身で納得するから
納得すると腹に落ちやすいし
腹に落ちた時に意識が変わり行動も変わりやすい。
「やりたい」と思った純粋な衝動をかき消すようなことはしなくなる。
一人旅いいですよ。
とくに言葉が通じない場所とか
「イエス」か「ノー」で答えなきゃいけないから
中途半端なオブラートに包んだ表現できないから
自分の本音がむき出しになる。
それに向き合うというか
出会うと、なんとも言えないゾワゾワが出てくる。
こんなにも自分にウソをついてきたのかと。
そのままの自分を堂々と
むき出しに立てた時
見るもの
出会うもの
景色がどんどん移り変わり
答え合わせのように
そのままで「OK」だよと認めさせてくれる
人物や出来事と遭遇していく。
シンクロニシティってやつです。
そのエネルギーの動きを体感できたなら
それは魔法の方法を得たことになる。
でも一度得たからといって
それがいつも不動のものとしてあるわけではない。
残念ながらそのことを
忘れてしまうのです。
思い出す方法や
忘れてしまうカラクリを今度書こうと思います。
(まだうまく書けるかわからないけれど)
私もしょっちゅう忘れるし
その思い出すカケラも意識に上らないほど
深く沈んでいくこともよくある。
でも知っているだけで
深い場所にいてもジタバタせず
ただ漂うことを許すことができる。
「正しさ」や人の目を意識していた時に
私が罠にはまって起こしていた行動と意識について今度書こうと思ってます。
今考えるとすごくカッコ悪いけど笑えます。
MIHO IMAYOSHI